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やきとり屋ものがたり

私が初めて鶴岡のやきとり屋の暖簾をくぐったのは、大学を出て教師になったばかりだから昭和二十八年である。三日町川端通り(鶴園(つるぞの)橋から三雪(みゆき)橋、千歳(ちとせ)橋までの間)に並ぶ屋台店だった・・・
安上がりで、手取早く飲めるところといえばやきとり屋だった。無論屋台店のやきとり屋である。今でも安上がりには違いないが、昭和二十八、九年頃のやきとり屋は何か活気に満ちて、独特の風情があった・・・
鶴岡はやきとりといっても大抵は鳥ではなく豚である。それも殆どがモツ(臓物)である。少なくとも屋台のやきとりはそうである・・・
シロ(ダルム=胃腸)七円、アカ(レバ=肝臓、タン=舌、ハツ=心臓、など)十円、そして清酒(二級酒)七十円、チュウ(焼酎)四十円。昭和二十八年頃の値段である・・・
やきとり屋の屋台で出す酒は、以前は清酒(二級酒)と焼酎だけだった。ビールなど置いている店は滅多になかった。
やきとりにはむしろチュウ(焼酎)の方が合う感じだった。懐が乏しいとよくチュウを飲んだ・・・
たまたま「やきとり」を辞典で引いたら、季題は冬となっていた。そうかも知れない。とくに屋台で煙をあおぎながら炭火(最近は殆どガスだが)で焼いた熱いのを・・・
やきとり屋の屋台が年々減ってきている。此の間も消防署脇の川端の行きつけに寄ったら、隣の屋台が消えていた。最初の頃は十二軒程並んでいたのが、今は四軒になってしまったという・・・
(昭和六十三年現在)
店が終わると、旧の第一小学校(今の市体育館あたり)脇付近の空地まで屋台を運ばなければならなかった。屋台だから何とか引っ張られるように車はついている・・・
(地名は平成三年の執筆当時のものです)
それはそうと、やきとり屋組合では屋台を引っ張らなくてもよいように連日のように市役所に交渉に行った。土木課では認めるわけにいかない・・・
やきとり屋「K」のかあちゃんは屋台一筋三十数年になるという。私が教師になる一年前からである。やきとり屋仲間では最古参の方である。彼此七十才、もうおばあちゃんだが馴染みは今でもかあちゃんと呼ぶ・・・
三日町の川端通りにまだ屋台が並んでいた頃、時折赤ん坊を背負って商売をしているかあちゃんがいた。三十少し過ぎに見え、一寸物静かなというか、どこか淋しげな感じでかあちゃんというより奥さん風なところがあった・・・
現在の昭和通り、料亭「新萌」の傍に「赤のれんA」の屋台があった。後で聞いたのだが昭和三十一年から三十四年までだという。
 暖簾が実に思い切って赤く目立った・・・
「かあちゃん、そういえばコウチョウ、此の頃さっぱり見えないネ」とシャチョウが尋ねる。「もう三か月にもなる」と満月のように顔も身体も真ん丸い感じのかあちゃんが答える・・・
お節介なコウチョウの正体は……?
内川端ぎりぎりに並ぶやきとり屋台で飲んでいると、ときにはこんなことも・・・
鶴岡やきとり屋台の「かあちゃん」昭和一代記。
私小説風でお届けします。

赤の他人の男から五千円を借りて始めたやきとり屋。
子供たちを食べさせていくには、それしかなかった・・・
兵隊から帰ってきた夫は、まったくといってほど働こうとしなかった・・・
あたしの母も後妻に入った。だからといって母の真似をしたつもりはない。強いていえば逆に母への面当てだったのかも知れない・・・
母が再婚した家ではこき使われて、学校にも行かせてもらえなかた・・・
結婚のためつれ戻されないうちにと、伯父に味方になってもらい、こっそり名古屋の伯母の所に走った・・・
その後、鶴岡に戻って結婚。昭和の女一代記、最終回!