2008年03月07日(Fri) 11:21
どんがら汁は庄内浜の冬景色
鶴岡人が冬になると旬をのがすまいと、手ぐすね引いて待つ食べ物に鱈がある。寒鱈である。
鱈は十二月頃から獲れ出すが、やはり一月末から二月初めの厳寒こそ旬であろう。しかもその短期間に最も美味く食べるチャンスは一、二回か。それをひたすら狙っているのが家庭の主婦。とにかく各家庭で一辺は食べないと落ち着かない。
行きつけの魚屋からの情報を今か今かと待つ。今日は船は出たのかと天気を気にする。もどり船漁の由良鱈のよいのが入ったと届くや、早速かけつけ主婦の確かな目で見定める。
鶴岡では魚にしろ、山菜にしろ的確に旬をとらえ品定めするベテランは、料理屋の板前などではなくて、家庭の主婦と断定してはばからないのではないか。ただ、今はどうだろう。
昔は魚屋の店先の雪の上に十キロ余りの鱈がどでーッと転がっていたもので、そこにマント姿のかあちゃんたちが立止って吹雪に曝されながら買う算段。
鱈のごろりの様はスマートとはいえない。そのどてーッと白い腹をむき出した、それこそ鱈腹。
鱈は決して高級魚ではない。しかも庄内浜だけの魚でもない。むしろ全国あちこちで獲れる、ありふれた魚といってよい。
そのありふれた鱈を鶴岡人は、これ以上ない程の最高の味として堪能する。
寒鱈のどんがら汁である。その名の通りどんがらの味噌汁。
ちなみにどんがらとは普通胴と「がら」又は「あら」のこと。他に胴(から)、胴がからっぽ、又胴がらみの料理という説。
いずれにせよ、がらやあらとなれば殆ど捨ててかえりみない代物(しろもの)である。
よく聞く話に東京に寒鱈の保証つきをクール宅急便で送ったところ、なんとどんがらもタツ(ダダミ、白子)もアブラワタ(肝臓)も捨てさり、白身だけを食べスーパーの塩鱈と左程違わないと吐(ぬ)かしたという。知らなければそういうもの。むしろそれが常識で、此方が非常識かも知れない。
コンチクショウとばかりぶった切ったどんがらにタツとアブラワタを打ち込んでの味噌汁。本来主役たるべき白身に出番はなく冷蔵庫へ。後に焼きもの、鱈ちりなどにする。なおタツは生(いき)のよいうちの刺身の味は絶品。
今のどんがら汁は大根、ネギ、豆腐又酒粕なども入れたり賑やかに食べるが、本来何も入れないようである。岩海苔くらいか。タツやアブラワタで多少くどいという人もいるが、むしろそのくどさが真冬の味である。
どんがら汁は漁師料理である。納屋煮のひとつという。
『加茂港史』によれば、納屋とは「鱈場納屋、鮭鱒納屋といってその漁獲時期が来ると船を立て漁夫を雇い漁の網元になる家のこと」という。そして「鱈を大漁したときや寒明けになって鱈漁をやる時など『あごわかれ』ごいって納屋の家に集り納屋鍋という特別大きな鍋で煮るのを鱈場納屋の納屋煮というのである」とある。
船から揚ったばかりの鱈の何尾かを納屋に持ち込み、手早くさばく。灯を点(とも)し、切り炉に薪をくべてどんがら汁を作る。漁師たちは夜っぴて焼酎をかたむけどんがら汁をすする。それ以外に何もない。
何も育たない真冬の自然は、海はただ荒狂うばかりの不毛の世界である。
外は闇、タラバショ(鱈漁をする漁師、タラバオジという言葉もある)はおそいかかる吹雪と猛り狂う波の音で闇を見抜く。
正月明けから節分頃までの寒鱈漁は命がけである。タラバショは気が荒いという。
日本海の魅力、いや庄内浜の魅力はむしろ夏よりも厳冬にあるといってよい。波の華の乱舞する海岸にわざわざ車を飛ばす。
どんがら汁は納屋煮として、昭和五、六年頃まで網元でつづけられたという。
現在われわれが食べるどんがら汁には普通白身を入れないが、最初からそうだったのか。白身は塩にして保存しておく。家庭で鱈料理といえば殆ど塩鱈といってよかった。
貴重な白身を取り去ったそれこそどんがらをすするとなれば何か素朴な料理のイメージ。
しかし『加茂港史』などを見ると、決して素朴な料理のようには思えない。
先ず鱈は一本釣りの上質のもの。アブラワタの吟味、味噌は三年味噌。そしてここでいうどんがら汁のどんがらは、胴がらみ丸切りしたからではないかという。
しかもタラバショを雇っている網元の家でつくるのである。
その限りでは素朴な料理どころか、豪華料理という感じさえ受ける。
そのどんがら汁を鶴岡の一般家庭でもつくって食べるようになったのは、何時の頃からどういう経過を辿ってか。
鶴岡の家庭ではこれ以上ない鱈を射止めたかあちゃんが、夕餉のメインにと自信たっぷりどんがら汁をつくる。
市街も吹荒ぶシベリア降しで、窓という窓は鳴りひびき猛吹雪、地吹雪である。
しかし夕餉にいそしむ茶の間はあたたかい。どんがら汁の世界である。せっせとしゃぶり、スワズリ(吸う)、わずかばかりの身を骨からせせる。そして食べつくされた骨という骨は、食卓の真中のカラ入れ(食べ滓入れ)に投げ入れる。見る見るうちにカラ入れが一杯になる。
翌朝台所の流し場にその骨が見捨てられたように置かれて、所々白っぽい、いやきらきらさえしている。夕べからの寒さで凍りついているのだ。
それで思い出したことがあった。
太平洋戦争が始まった頃だったと思うから小学校六年だったか、一月から二月にかけての寒休みだった。叔母夫婦が久方ぶりに夜訪れるというので、祖母は魚屋に走り鱈を買ってくる。この叔母は祖母の三番目の娘。長女は私の母。その叔母の夫は陸軍軍人。正式にはどう呼ぶのか覚えがないが、技術畑で当時准尉(少尉に准じる)。れっきとした将校服で軍刀をつるした姿はカッコよかった。私はその叔父の軍服姿が見られるので、何となくはしゃぎ気分で、ご馳走の支度に忙しい祖母の周りをうろついた。
ところが何でかは思い出せないのだが、勤め先の小学校から帰ってきた母から怒られたのである。母は機嫌が悪く私の何が悪かったのか、とにかくオオゴケ(ひどく怒る)された。それに私は素直になれなかった。
押し黙ったまま部屋に引っ込んで、叔母夫婦が見えても茶の間に出て行かなかった。ムツケタ。つまりすねたのである。はしゃぎ気分など消しとんだ。登校拒否ならぬ茶の間拒否。
茶の間では酒盛りの最中らしく、叔父の張り切った大声に父の応対する低い声。手のひらを返したような母の笑い声。
私は小机に向って頑(かたく)なに雑誌のページをめくりつづけたが、耳は完全に茶の間。
祖母が催促にくる。ふッと心が動くが背を向けたまま。最後までムツケルつもりはないのだが、あっさり軍門に降るのを潔(いさぎよ)しとしない。
茶の間は一段と賑やか。どうも私のことなど一顧だにしてないのではないか。所詮私の一人相撲か。ごろりとあおむけになったところに、叔母の顔。きっかけをつかんだつもりで起きあがりかけた時、父の睨む目と打っつかる。
「そうしていつまでもムツケてろ。ご飯は食べなくともいい」
と怒鳴って消えた。
再びごろり。これで幕。どんがら汁もきっかけも消し飛んだ。ふて寝をしているうちに本当に眠ってしまった。
翌朝この冬一番といってよい程冷えた。流し台に立つと氷が張っている。その片隅のカラ入れに山のようになっているどんがら汁の骨があった。私以外の皆がしゃぶり、スワズリ、せせった残骸である。凍りついてきらきらいている。これ見よがしにである。
私はうがい水を思いっ切りその骨の山に吐きだしてやった。
何ともカワイクないガキだったのだ。
