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2007年10月08日(Mon) 18:33

庄内柿と庄内美人 -2

 鳥居町は庄内柿も多かったが美人も多かった。
 美人で評判の高かった作家横光利一の奥さんの実家が私の家のすぐ裏手にある。夏休みには横光夫妻と子供が見えていた。家を継いでいる姉さんもきれいだった。
 左隣にも美人姉妹がいた。妹はまだ女学生だったが、花嫁修行中の姉の方は華やかな顔立ちで明かるく、気さくにわれわれ子供達の相手をしてくれた。多分隙だったのだ。夏になると帰省した近所の大学生がよく覗きにきた。
 
 余所(よそ)の人は私の母を美人という。いや小宮山家は美人系と大仰なことをいう人もいる。
 私は少くとも小学校五年までは、母を別に美人と思わなかった。教師の母は毎晩のようにおそく帰り、不機嫌なことが多かった。しかも同じ教師である父とは、私達子供の前でもよく口喧嘩。そんなことから母が美人に見えなかったのかも知れない。
 ところが小学校六年の時、母は私の通っていた小学校に転任してきた。母は学校では家とはまるで違って終始笑顔で、なる程他の女先生よりきれいに見えたのである。
 その頃だったか、アルバムをひっくり返していると、たまたま母の師範学校時代の写真を見つけた。多少セピア色がかっていたが、若い和服姿の母が何とも美しく写っていた。映画女優のブロマイドのようだった。
 その後初対面の年輩の人から
「あの美人センセの息子さんで」
 などと言われると多少くすぐったかったが、お世辞にしろ満更でもなかった。
 
 庄内美人は品のいい瓜実顔(うりざねがお)とか。その瓜実顔は何気ないところで、おやッと思わせるようである。その辺の路地ですれ違う、店の奥から手をふきふき出てくる。何気なくである。何かひそんでいる感じ。
 
 ひそんでるといえば中学生(旧制)の時、こんなところに庄内美人がと目を見張ったことを思い出す。
 当時は戦時中、農家は人手不足で中学校では田植えと稲刈りの時期に勤労奉仕なるものを行っていた。一種のボランティアだが、学校あげての強制奉仕である。
 一年生の秋。場所は忘れたが駅を越えて行ったような記憶がある。どういうわけか同じ町内の四年生と組まされ、割り当てられた農家は小作農のようだった。家は何年も葺(ふ)き替えないような、苔の生えた茅(かや)屋根の陋屋(ろうおく)といった感じ。
「これじゃタイグウは期待できないナ」
 先輩は露骨なことを言う。
 タイグウとは待遇のことで、生徒仲間でおやつや昼食時のお汁などの程度から、今日の家のタイグウが善いの悪いのと言いあった。ロクに稼ぎもしないくせにである。
 今回はそのタイグウよりも何よりも、その家の姉妹が美人なのに目を見張ったのである。陋屋に似合わず、又農家には見かけない実にアカ抜けた庄内美人。
「掃き溜めに鶴か、実はやんごとなきお方の隠し子だったりして」
 先輩は古文でならった表現を使ってみせる。
 田んぼで稲刈り中は、ハンコタンナ(労働用に顔を包む細長い帯状の布)のようなものをしているので判らなかったが、お昼に座敷に招じ入れられて姉妹と顔をあわせ、目を点である。
 まだ中学一年の私でさえどきッときたのだから、先輩はなおのこと興奮と緊張を一緒にしたような調子でお汁のお代りをしていた。
 当時は男女共学など中学では考えられず、上級生などは近くの女学校の前を何かにつけてはうろつきたがったのだ。
 姉は襟もとを大きくくつろげ幼児に乳をやっている。その豊かな乳房と真白い肌がまぶしかった。
 妹は姉より明かるい顔立ちだが、似ているところを見ると、義妹ではなくしたがって姉は婿取りのようである。その婿が兵隊にとられた様子。
 先輩は午後からの稲刈りに何か無暗に張り切る。
 帰り際妹の方が子供を抱きながら駆け出してきて、三時休みの霰(あられ)菓子などの残りを渡してよこした。そして子供の手を振るようにして見送る。
 陋屋を背にし、わずかに色づき始めた庄内柿の木の下に立つ。絣(かすり)模様の野良着姿の庄内美人。秋の夕映えに何かはるばると、そして犯しがたいような風景。
 先輩は何べんも振りかえりながら
「庄内美人と庄内柿か、絵になるな」
 彼は美術部なのである。