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2007年02月22日(Thu) 18:39

酩酊 -3

 ナガオさんは昭和四十五年(一九七〇年)三月、六十才半ばの若さで亡くなった。山形の地で。

 ナガオさんはもともと九州(宮崎県都城市)の出身である。そいういえばふる里の話をあまり聞いたことがない。
 いつか酒席で珍しく九州の民謡を歌ったことがあった。民謡というより素朴な地唄といった方がよく「ゴーイ、ゴーイ」というはやし言葉がついていた。宮崎県の木挽唄のようで、そのはやし言葉がノコギリの音ということで実にユニークだった。それは酩酊ナガオさんの思い入れ深い歌い方にもよるようだった。

 九州から東京、横浜、それから満州に渡り、そして「シベリヤ詩集」を生み出したシベリア抑留生活四年、帰国して九州とは反対の東北は山形県へ。鶴岡、温海、山形と居を変えた。こう並べて見れば何か放浪(さすらい)の感がなくもない。いずれの地も仮の住居に終始した。土地を求め家を建てたいという話など聞いたことがなかった。内心は安住の地を求めながら、はからずも転々とせざるを得なかったのかどうか。しかし少なくとも私の目の前のナガオさんはそんなことには目もくれないように見えた。
 執着の心がさっぱりとなく、飄飄と自由気ままな酩酊ぶりが際立った。
 

 最後の地山形に居を移したのは温海高校の校長退職後である。山形新聞の詩の選者などで活躍していた。
 その頃だったか記憶が定かでないが、温海温泉の或旅館のロビーでナガオさん自作の詩画展が開かれた。ナガオさんの手になる独自な詩とパステルカラー(だったと思う)の自在な絵が、色紙という和風の様式のなかに見事におさまって不思議ともいうべき魅力をかもしだしていた。「祭り」という詩画などはまさに酩酊の風景だった。
 
 そのナガオさんが私がまだ勤務していた山添高校にふらりとあらわれたことがある。いかにもふらりとそこにあらわれたという感じで、自作の詩「石魂」を刻んだ記念碑を見つめていた。午前十時過ぎである。ナガオさんはすでに半ば酩酊していた。「ナガオさんを頼む」と校長からバトンを渡された恰好で、勤務そっちのけで昼日中から飲む破目になった。

 そんなことがあってしばらくしてから山形のナガオさんの自宅を訪ねた。夕方一升瓶をぶらさげてである。玄関をあがるとすぐ小さな書斎兼居間だった。机の周りには雑然と本が積まれていた。やはり仮の住まいという感じだった。どこかでもうすでに一杯ひっかけていたナガオさんは少し小さく見えた。それ以来ナガオさんとは会わなかったような気がする。いや鶴岡にきたかも知れない。それこそふらりとである。

「ナガオさんが毎晩のように飲み歩いている」「酒屋にツケがたまってしまったらしい」などの噂が流れてきた。
 ナガオさんが亡くなったのは肺炎をおこしてと伝え聞いたが、一瞬「酩酊の果てに……?」と思った。
 ナガオさんはとくに晩年何でそんなに酩酊に酩酊を重ねていったのだろうという思いは残る。
 

 私は詩については門外漢である。したがって詩人長尾辰夫のことなど判るはずもない。第一その能力もない。師友、酒友としてのナガオさんとの束の間のふれあいである。
 ただ少し立ち入った、ドグマチックな言い方をすれば、一人踊りのようなナガオさん独特の酩酊ぶりはやはりひとつの詩の世界なのかも知れない。酩酊そのものが詩、つまり長尾辰夫は詩人というよりももはや詩そのものであったのではないかと。
 そこにはあのシベリア抑留生活四年の体験がいまだに密かに、しかしナマナマしく責め苛むように燃えつづけていた、いや燃やしつづけていたのではないかと。
 

「生きていなければならないことがある
 たしかめておかねばならないことがある
 不信の夜に眼ざめてひとり石魂を刻む」(「石魂」長尾辰夫)


「生きていなければ」とうたったナガオさんは亡くなってしまった。
 あの一人踊りが眼に浮かぶ。