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2007年02月19日(Mon) 19:01

酩酊 -1

「ナガオさんがきてる」。キャバレー「南国」である。シロウトに毛のはえたようなバンド。フロアではホステスとお客五、六組がチークダンス。その間を頭ひとつ出して縫うように、泳ぐように一人で踊っている五十才半ば過ぎの男。
 黒い背広のポケットに左手を突っ込み、右手を高くひらひらさせながら飄々(ひょうひょう)と。もちろんこの一人踊り自体出鱈目もいいところだが、しかしそれが何とも様(さま)になって、ナガオさんならではのムードである。ナガオさんは大抵「南国」には我々と一緒にくるが、時折一人でふらりときてはこの一人踊りに興ずる。いずれにしてもこれが出てくるとナガオさんの酩酊ぶりは極まったといってよい。同じ酒でもどちらかというと生理的に酔うことよりも、気分そのものの酩酊にひたる具合である。
 

 ナガオさんは長尾辰夫。高校教師。私が初めて出会った時は山形県立山添高校の教頭だった。いやそれよりも、れっきとした詩人なのである。ナガオさん自身、教師であることの前に詩人なのだと、詩作がライフワークなのだと、この酩酊の一人踊りがそれを主張しているように見える。
 だが、職場では無論私の上司であるが、飲めば私にとって上司もへったくれもない。詩人の長尾辰夫でもない。大体私は詩のことはわからない。

 親子程も年が違うナガオさんだが、師友のような、酒友のような感じで接して貰っていたといえる。端から見ればそんな私など実に生意気な若造に見えたことだろう。しかしナガオさんは何も私だけでなく、職場の若い先生達にもみな同じなのである。
 ナガオさんは飲んで血気にはやって打っつけてくる私のような青二才の言い分をじっと聞く。受けてくれる。一緒になって考えようとする。時にはするどく切り込んでくる。と思うと私のヘリクツぶりをひやかして盛りたてる。
 そして必ず投げつけてよこす言葉がある。
「コミイー(小宮山)、ベンキョウしろよ」実にタイミングよくである。オーバーにいえばナイフでぐさりと心臓を抉ぐるようにである。いつもこの一言にはマイッタ。

 ナガオさんは、いや詩人長尾辰夫は「シベリヤ詩集」についで詩集「花と不滅」を昭和四十一年(一九六六年)に出した。実に十数年振りである。「シベリヤ詩集」が昭和二十六年(一九五一年)発行であるから、正確には十五年振りである。ただ「花と不滅」の「あとがき」にナガオさんは「シベリヤ詩集」刊行してから十三年になると書いている。その二年の違いは何なのだろう。一度尋ねて見ようと思ったが、ナガオさんと飲んでしまえばそんなことはどうでもよく、ごくつまらないことのように感じられてついそのままになってしまった。

 ところがそんな「十三」よりももっと大事な意味を持つ「十三」が「花と不滅」の詩のなかにあったのである。数名でナガオさんと一緒にコップ酒を傾けていたとき同僚の一人が遠慮がちに「あの詩集のなかの『うやむやの関回遊』の詩に『国道十三号線』とあるけれども『国道七号線』ではないのか。カンノンモリ(観音森)は遊佐町の方にある山なのだが」と質問した。
 その時ナガオさんは手にしたコップを宙に止めたまま「エッ」と一瞬、メガネの奥の眼光がキッとなった。そして「アッアーッ」と口をあけたまま、しばらくは彫像のように動かなかった。やがてコップをテーブルにおくと「しまった」とつぶやいて、まるで髪をかきむしらんばかりに身を揉み、悔みに悔んだのである。
 本人の思い違いだったか。単なる印刷ミスであったか。いずれにせよ本人の詩作上のミスとして引受けざるを得まい。ナガオさんにとってはゆるがせに出来ない言葉のひとつひとつが詩のいのちだとすればたかが「十三」と「七」の違いとはいえないのだろう。その詩全体を無意味にしてしまいかねない。誤字訂正版を貼って読みなおす詩ほど味気ないものはあるまい。私みたいなシロウト目にもそう思えたのである。
 詩集「花と不滅」については私も敬意を表する意味でも一冊求め一応全部目を通してみた。何か強烈というか、しぼり出してくるような言葉の重みに圧倒され、眩惑されることはあっても正直わかったとはいえなかった。「十三号線」のことなど気付きもしなかったのである。


つづく
酒友としての「ナガオ」さんとのエピソード