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2007年02月18日(Sun) 18:08

扉 -2

「T古本屋を知っているでしょう」と言う。知っているどころではない。私が小学校も上学年、つまり昭和十五、六年頃だったろうか。T古本屋は貸本屋でもあったのでもっぱら借りた。それ以来戦後にかけてせっせと通っていたのである。彼女はそこで女中をしていたという。

 T古本屋の主人は三十も半ばだったろうか。体格のがっしりした髪はオールバックで和服姿が多かった。当時は戦時中で坊主頭に国民服が多くなってきただけに印象があった。強いていえば大衆作家とまでは行かないまでも何か物書きといった風貌だった。奥さんはY温泉の或旅館の一人娘だという話だった。小柄な庄内美人という感じで、これまた和服姿でたまに赤いタスキ掛けのまま奥から出てきた。そういえば確かに女中がいた。「ねえや」と呼ばれていた。二十才にはまだ間があるようで顔はあまり記憶にないが背の低い丸っこい身体だったように思う。この小柄な痩せぎすなミッちゃんがT古本屋の女中だったとは判らなかった。

「コミヤさんといったかしら」コミヤでもコミヤマでも似たようなものだが苗字まで頭に残っているところを見ると彼女も店番していたに違いない。とにかく私はT古本屋のどの棚に何の本があるかはむしろ店の人よりもくわしい位通ったのだ。
 思いがけず私を知っていると、何か図星を指されたような感じでちょっとドギマギしたりした。

 そのT古本屋は終戦後銀座通りのド真ん中に移ってきた。一階は古本屋、二階は喫茶店にした。戦後鶴岡で一番最初の喫茶店ではないかと思う。これが当った。ウェートレスが三人、いずれも美人で若々しく、真白いエプロンが清々(すがすが)しかった。戦後の灰色模様のなかで、そこだけがいちはやく華やいだ色彩感で目映い程だった。今見たらそれ程ではないのだろうが。
 コーヒーやケーキ類はまだ貴重な頃で私のようなスネかじりにはそうたびたび、美人ウェートレスの顔を拝みに行けなかった。その代りでもないが一階の古本屋には相変らず足を運んだ。その頃は翻訳ものを多く漁った。生意気にカントの「純粋理性批判」なども借りて読んだものである。全く腹が立つ程判らなかった。

 T古本屋の主人、いやもう喫茶店のオーナーといった方がふさわしく、二階に行くとパイプをくわえて近くの商店の若ダンナや文化人?なる人々とテーブルを囲んで談笑していた。主人自身、地元の新聞社に首を突っ込んだり、帰省学生の演劇発表会を援助したり、戦後の鶴岡の文化活動に顔を利かせているようだった。ついには市会議員に立候補した。当時はその辺の安アパートの大家や商店のダンナがあいつが立つならおれもと立候補して、投票日の二、三日前からジャンパー姿にタスキ掛けで自転車をこぎながら、メガホン片手にたった一人で連呼する。そんな選挙風景の見られる戦後の時期であった。
 T古本屋の主人は落選した。次点で一部からは善戦だったと評されたが、本人は落ちるとは思っていなかったらしい。

 この落選を境にしてT古本屋は落目になった。喫茶店の経営が思わしくなかった。同じような喫茶店があちこちに出来た故もあった。美人ウェートレスも引き抜かれたりしたようである。それよりも喫茶店にしろ、古本屋にしろ土台主人の放漫経営が破綻をきたしたというところだったのかもしれない。選挙にも金を使ったらしい。それに加えて見栄っぱりが更に輪をかけた。奥さんとも別れ、夜逃同然のようにして姿を消したという噂がたった。
 私が大学卒業の頃、つまり昭和二十八年にはもう銀座にT古本屋の姿はなかった。わずか数年の羽振りだったようである。

 それから一年も過ぎた頃だったか。山形駅でひょっこりT古本屋の主人と会ったのだ。「コミヤマくん」と声をかけてきたのだ。彼とはそれ程親しく話したこともなく、親子程も違う私のことなど視野にはなかったと思っていたのだが… それがいかにも親しげに話しかけてきたのには意外だった。
 彼は相当着古した和服姿で風呂敷包みをかかえていた。別に取り立てて話題もなく別れたが、眼鏡の片方のつるが折れて紐でぐるぐるしばってあり「昨日は山形大学の教授○○クンとおそくまで飲んで……」とその眼鏡のつるにしきりに手をやっていたのが印象的だった。

 T古本屋の主人はもう亡くなってから数年になるとミッちゃんはいう。そして帰り際に私の顔を覗き込むようにして「ダンナはインポだったのよ」と不意に言った。急にあのオールバックの赭ら顔のがっしりした和服姿が頭一杯に浮かんだ。

 
 それから数か月程してから機会があって又ミッちゃんのいたバーを覗いたが彼女の姿はなかった。Y温泉で小さなバーを開いたという。もともとそのつもりでここで見習いがてら働いていたものらしい。
 ミッちゃんはY温泉の生まれかと聞いたが誰も知らなかった。T古本屋の奥さんがY温泉だったのを思い出す。

 Y温泉に行ったら「ミッちゃんいますかあ」と扉をあけてバー覗きをやろうか。それこそ本当のミッちゃん捜しだと苦笑した。
 それにしても痩せぎすのミッちゃんが本当にあの丸っこい「ねえや」だったのか?
 どうして「ダンナはインポ」と私に話したのだろうか。