2007年02月17日(Sat) 20:49
扉 -1
バーの戸は扉でなければならない。幅二尺余の部厚い重々しい木製の扉でなければならない。しかも客に媚びない無愛想な方がよい。
中世ヨーロッパのシャトウの扉のように外部と内部の世界を決然と二分し、そして内部が外部を拒絶しているような。大体扉にはそんな魅力があるといったらオーバーだろうか。その外部と内部を決然と二分した部厚い扉をノブを回してあける時、一瞬だが緊張感が走る。その気分が悪くないのだ。バーの戸が居酒屋や小料理屋のように引き戸ではどうも恰好がつかないような気がするのである。
扉をしめたら内部は密室である。別世界である。ステージでもある。密室のなかのママたちをその扉から誰が登場するのかひたすら待つのである。
山形の先輩と鶴岡で出会い、行きつけの寿司屋で腹ごしらえをかねて一杯やって出たがまだ飲み足りないという思いが、自ずと飲み屋街に足を向わせた。
入ったことのないバーのネオンが目について「たまには知らない店を探訪するのも悪くないか」と言うと、先輩は「よし、それじゃバー覗きといくか」と言った。
そのバーの扉の前に立った先輩はニヤリとしてノブに手をかけ私を見た。初めての扉をあけるときは緊張感もだが私などはちょっとした勇気が要る。先輩は扉をあけるや、首だけ突っ込んで「ミッちゃんいますかあ」と叫んだ。「ミッちゃん?どこの人?イネエ」中年のママの無愛想な声が返って来た。先輩は私にも内部(なか)を覗かせ、目で「やめよう」といっている。
こうして入ったことのない扉をあけては「ミッちゃんいますかあ」とやった。内部が気に入ったら水割りの一、二杯も飲む。もちろん「ミッちゃん」はどうでもいいのである。「ミッちゃんいますかあ」とやるのは、ただ黙って扉をあけて覗き込んではカッコつかないというか、それにひとつのはずみにするためでもある。だからミッちゃんでもヨッちゃんでもよい。出まかせである。偶然ミッちゃんなる女性に出会(でくわ)したらそれはそれで一興というものである。
バーはどこでも大体カウンターに洋酒棚、少しひろいとボックスがある。奥に小部屋があるところもある。今はカラオケもある。舞台装置は皆一様というところである。しかし密室のムードは決して一様ではない。その店ならではの特有の世界がかもし出される。そうでなければそのバーの存在価値がないとさえいえる。
我々のこのバー覗きの気まぐれないたずらは、そのような密室のほんの匂いだけをかぎとってまわるということになる。
こうして七軒目だったか八軒目だったか。「ミッちゃんいますかあ」「ミッちゃん?あ、ミッちゃんお客さんだよ」ミッちゃんなる者がいたのだ。本名か源氏名かそんなこと知っちゃいない。ありふれた呼び名だからいてもおかしくはない。犬もあるけば棒にあたるだ。
「ミツコですけど」着物を一寸婀娜っぽく着た四十半ばの小柄な細面が怪訝な面持で目の前に現れた。「いや違うんだ。ミツコではなくミチコだ。山形から最近移ってきてこのあたりのバーにいるというものだから……」最初からウソなのでそんなことどうでもよいはずだが、いい加減年配のミツコという怪訝な面持にひきずられたのか、先輩は真面目な顔で弁解じみたウソを重ねている。
ところが先輩は御丁寧にポケットから名刺まで出して見せたのである。先輩の行きつけの山形のバーのホステスの名刺。満更出鱈目でもないわけだ。しかしその名刺のミチコは鶴岡に移ってきてなどいないのだ。いずれにせよどうでもよいことなのだが、名刺まで小道具に使って力んでしゃべっている先輩の様子が可笑しかった。
「ミッちゃん」捜しの虚話(そらばなし)が好い加減終わったところで、目の前のミッちゃんがまじまじと私の顔を見つめて、「私、あなたを知ってる」と言い出した。こちらは記憶がない。
こちらには記憶のない「ミッちゃん」とは・・・
