2007年02月13日(Tue) 20:56
ライター
煙草を銜えるといつものようにママの手がすっと伸びてカチリと火をつける。ところがそれからはいつものように手を引かず、そのまま掌(てのひら)をひらいてライターを見せ「ちょっといいでしョ」と言う。いつもの百円ライターではない。女持ちの小ぶりな平たい電子ライターである。
私など百円ライターでも五十円ライターでも火が点きさえすればよいので(以前はむしろマッチの方が好きだった)関心はないのだが、ママから「いいでしョ」と言われて手に取って見た。とくに高価なものだとは思わないがしゃれた感じである。色が真紅というか緋色というか派手ではあるが何となく上品である。ちょっとしっとりとした握り具合である。
友達からお土産に貰ったものだという。彼氏かというと女友達だといい、もし彼氏がいたらもっと高いものを貰うと笑ったが、すぐ笑いを引っ込めて「このライター盗(と)られることこだった」と言った。その意味が判らずライターからママに目を移すと、お客さんが黙って持って行ったのだといって話した。
十日程前、ハイヤーを頼んだお客さんを送りに外に出たが雨が降っていたので入口のところで見送った。ハイヤーまで駆けて行ったお客さん、何か落した。それがチラと赤く見えた。声をかけてやると慌ててふりむいて拾いテレかくしみたいに笑った。
店にもどり一服しようとしたら無い。下に落したのかとしゃがんでぐるり探したがやはり無い。そこで「そうか」と気付いた。赤く見えたのがそうだったのだ。
気に入っていたライターなのである。友達のお土産を一週間も経たないうちに無くしたではすまない。そう思うとあのテレかくし笑いに腹が立ってきた。必ずとり戻さねばと決めた。そういえばあのお客さん飲んでいる間中そのライターに目をやっていたのだ。その時にも「ちょっといいでしョ」と言ったのだ。
或電気メーカーの出張員で仙台の支社から三か月置き位にやってくる。若い割に人当りがよく、どこか軽い調子である。
定宿になっているN旅館に電話したがまだ帰ってないという。ハシゴしているのだ。翌晩又電話したが帰ってないという。このまま仙台に帰られても癪なのでN旅館のおかみに「店のお客さんのなかで赤いライターを間違えて持って行った人がいるので尋ねているのだが、知らないかどうか聞いておいて欲しい」と頼んだ。その夜おそくおかみから電話があって、知らないそうだという。そんな筈はない、見たのだと口から出かかったのをのみ込んで本人を出してくれといったが、酔って寝てしまったようだという返事である。避けているのだと思った。
ところがそれから二日後にやってきて黙ってライターをカウンターに置いて又テレかくしみたいな笑いをした。「どうもありがとう」と言ってしまってから、馬鹿なそっちが誤りこそすれ、こっちがお礼をいう筋合はないのだと苦笑した。
ママの話を聞きながら、私はこのライターを持ち去ったお客さんがいたのかと改めて手にして見た。ママの方は手元に戻った今はもうそのお客さんに腹を立てている様子もなく、どうして持ち去り、又返しにきたのか特に忖度(そんたく)するふうもないようだった。
一昔も前になろうか。いつもしゃれたライターを持ち歩いている知人がいた。これも特別高価なものではないが、十数種程蒐めていた。ライターだけは肌身離さずという具合だった。上衣の右の外ポケットにしのばせ、よく手を突っ込んで握りしめている感じだった。何故か上衣の外ポケットにはライター一個だけあとは何も入れるべきではないという。煙草は内ポケットから出し、袋ごと口に持っていき、ヒョイと一本口で抜き取ると、おもむろにライターを取り出し、いとおしむようにして火を点ける。最初の一服の煙をゆっくり吐き出すと、ライターを又いとおしむように目の高さに掲げるようにしてからポケットに仕舞う。いや仕舞うというより、手にひそんだライターをポケットにすっとすべり落すといった具合である。彼はその時の感触がまた好いのだと仰(おっ)しゃる。そんなことに興味も関心もない私にはちょっと厭味、気障ったらしく思えたものである。しかし飲むたびに目の前で見せる彼のいつもの手順に馴れてしまったためか左程でもなくなった。
その知人が一度或バーでライターを失敬したことがあるという。バーテンの使っているライターが気に入ったのである。帰り際スツールから立上がると、目の前に置きっぱなしにしてあるそのライターをごく自然に手に取るとポケットにすべりこませた。
しかし翌朝ポケットから取り出して見るとただのありふれた安物のライターに過ぎなかったのだ。美人と思っていたホステスに日中出会い化粧っ気のない素顔にガッカリしたような。
多分バーテンのライターを扱うスマートな仕草がそのライターを馬鹿によく見せたのだろう、バーテンも苦笑いしていたに違いない、と知人はいう。
そんなことを思い出しながら、まだ手にしているこの「ちょっといいでショ」とママの言うライターを、自分もこのままポケットにすべり込ませてみようか、そして翌朝取り出して見てみようか、と思ったりした。
