2007年02月08日(Thu) 22:09
後についてまわる
仮にYさんとしておこう。私が教師駆け出しの頃、酒飲みについては先輩にあたるYさんから随分面倒を見てもらった。
とにかく当時は学校に授業に行くのか、飲みに行くのかと思う程よく飲んだ。宴会などの後には大抵二次会、三次会があった。それを取り仕切るのは必ずYさんである。飲み屋には顔が広かった。それだけ授業料も払ってきたようだった。又当時は新しい飲み屋が次々と誕生している頃で、その辺の情報も早かった。飲み仲間のガキ大将というところである。
私などは酒好きが幸いしてか?彼が退職するまでその方のお付き合いは続いた。
自分一人で飲み屋を覗く程の勇気もない私は、誘われると大抵二つ返事でYさんの後にのこのことついてまわるといった調子だった。
正直Yさんはもてた。当時の或二枚目俳優に似てるとホステス達に持ち上げられ満更でもない様子だった。それを傍でただ黙って飲んでいる私など、自ずから彼の引き立て役になっていたようなところがある。
もてようもない私にYさんは一度丈「コミは年増にもてる」とお世辞とも、冷やかしともつかぬことを言ったことがあった。残念ながら決してそうではないのである。「くろねこ」などに行くと、Yさんの傍に逸早く座るのが若い女である。私のところにしばらくして座るのがどう見ても年上である。あとで言われたのだがむっつりムードでただ飲んでいる私を皆敬遠して、結局年増の姐さんに押しつけたというわけである。もっともなことである。
それに私は大体飲み屋はママやホステスの方でサービスをして楽しませてくれるもので、客の方からサービスする必要などないと思っていたし、出来もしなかったから益々もてるものではなかった。
その点Yさんは自分もサービスしながら相手のサービスを引き出して一緒に楽しむところがあった。ホステス達への気配りが感じられた。私はそれを横目で見ながら酒の肴にする位が関の山だった。
とにかくYさんは飲み屋の世界、酒、食べもののことなど、よく知っていた。まだバーなどロクにない頃はよく「七尾」「若松軒」「祝や」などの料亭にあがった。そこの料理の特徴を飲み込んでおり、板前に心付など一寸キザなことをして、特別に一品料理を作らせ、楽しんだりした。
又「祝や」がまだ奥にあった頃、銀子姐さんなどの芸者の三味線で、それこそ四畳半気分。Yさん十八番のヤッコさんを相対(あいたい)で復習(さら)ったりした。私といえばゴロリと寝そべって聞きながら飲んでいるだけで、余計者で様(さま)にならないのは当たり前。寝そべっていないで私も小唄、端唄などその時習っておけば少しはもてて、宴会なども楽しめるようになったかも知れないが後の祭である。
Yさんはその辺遊び馴れ、飲み馴れて万事垢抜けているのに引き換え、私ときたら無口で何時になっても野暮ったく、ただ黙って酒を喰うだけである。
そんな対照的な二人がよくつるんで飲み歩くのを飲み屋のママの目には不思議に映ったようである。
鶴岡で飲み飽きると思いついたように酒田迄も足を伸ばしたりした。
Yさんはこうした毒にも薬にもならないような私のごときを、酒飲み相手として誘いやすかったようであり、私はそれをよいことに専ら後についてまわった。
それがカウンターに座れば、彼は彼、私は私、自分のペースで気ままに飲む二人酒といった調子である。
彼がハイボールならば、私はオンザロック。彼が生ハムなら私はサラミチーズといった具合。
因みに彼は理系。私は文系。又彼は体育の方の部の顧問として情熱を傾けているのに対し、私は文化部の方をたまに持たされては潰していた。その辺足元にも及ばないところである。
共通話題とてあまりない。よく最高の酒の肴は他人の陰口だというがそんな話もしない。何となく飲み屋にまで職場のことは持ち込まないというような気分がお互いにあった。だから会話といえばYさんとママの間が主で私は他人事のように飲んでいたりする。
そんなこんなでYさんとの二人酒は、別に相手に気を使うこともなく、自分のペースを通して勝手にしていればよい部分があった。
それじゃあ、一人で飲んだ方が、ということにもなるのだが、それがそうではないのである。とにかくYさんの後についてまわって飲むことになるのである。その方が落着いて気楽に飲めるのである。
