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2007年02月07日(Wed) 21:47

流しのショウチャン

 今はカラオケのない飲み屋は珍しいほどである。やきとり屋の屋台にまである。
 カラオケを歌えない者は、飲み屋に行く資格がないといわんばかりのカラオケ独裁ムードである。歌えないし、歌う気もない私など、隅っこの方でガンガンと頭が痛くなる程の音量に辟易しながら、小さくなって飲んでいるだけである。
 そういえば「当店にはカラオケは置いてありません」と看板に書き入れてあるバーがある。やはりカラオケなしの静かムードを好む客もいると見える。わざわざ書き入れてあるのは珍しい。
 カラオケ党には、マイクに酔うというか、憑かれるというか、大して上手くもない半可通程しつこく歌いつづけて止まない。一晩で七千円も歌いまくった中年の男がいたそうである。

 カラオケブームのために消えていったのが「流し」の商売である。ショウチャンがその最後だった。(昭和)五十六、七年あたりから姿を見せなくなった。カラオケには抗しきれなかったわけである。
 ショウチャンはダブルのブレザーに、使い古したギターを抱え、独自の歌詞カードをポケットにしのばせて、文映、銀映跡、昭和通りと流して歩いた。野太い声だが、男性的で声量があり、さすが手馴れたものだった。大抵のリクエストをこなした。年配の我々にはよくナツメロ、又たまに軍歌をサービスした。中にはショウチャンのギターの伴奏で歌う客もいたが、声が通らず貧しい歌に聞えた。ナマの声ではギターに負けてしまうのである。
 ショウチャンに言わせると、マイクを使うカラオケとは声の出し方、歌い方が違うのだそうである。

 まだカラオケのない頃の流しのショウチャンは忙しかった。バーの扉を開けた途端、「待ってたショウチャン」とばかり酔客から曲の名が乱れとんだ。流し全盛の頃は一晩でかるく、ン万円は稼いだという。その頃はショウチャンの他に二人位いて、それぞれのナワバリを流していたようである。しかし(昭和)五十四、五年頃からカラオケが出始めるとみるみるうちにお座敷が減った。飲み屋によっては掌(てのひら)を返したように、まるで邪魔者を追い払うような態度を見せるママもいた。尤も、以前程バーなどは景気がよくない故もあって、盛になってきたカラオケで惹き付けようというわけである。流しを歓迎したところで店には一文も入ってこないのである。
 そんな頃、ショウチャンはもう十時前には一回りしてしまい、あがってしまうことがあった。そしてよく銀映跡の「とも」に又顔を出し、客があまりいないと駄弁っていた。ショウチャンの何か疲れたような表情と、微かなのだがギターを扱う投げやりな仕草が、今日もお座敷が少なかったなと思わせた。

 浅黒い顔で分厚い唇、一寸見はいかついようだが、笑うと童顔となり人なつこい。流しの中にはヤクザっぽい手合も見受けるがショウチャンにはそれがなかった。律儀な親切な男なのである。
 たまたま「とも」で山菜の話になり、コゴメ、ウルイの根が欲しいといったのを覚えていて、数日後山から掘ってきて届けてくれたのには恐縮した。ショウチャンは酒が飲めないので、ジュースをおごるしかなかった。

 流し商売も難しくなってきた頃からショウチャンも潮時を考えていたらしい。妻子のために別の生計(たつき)を余儀なくさせられ、今は会社勤めをしていると聞く。
 彼とて若い頃は窃かにレコード歌手を夢見ながら流していたのではないかと思う。歌い手のあれこれを熱っぽく話してくれた、夜のひと時もあった。彼達のコンクールみたいなものもあったらしい。

 ところで鶴岡で最初に流しを始めたのは、マッチャンという人である。三十数年も前だろうか。やはりギター流しだった。一時は弟子というか。子分というか二人連れで流していた。流し商売をやる者は、そのマッチャンにつなぎをつけていたようである。
 ショウチャンはその最後の流しということになろうか。

 今ではもう流しが消えて遠い感じである。

 
 (地名・店名などは、平成三年の執筆当時のものです)