2007年02月06日(Tue) 10:12
飲み屋誕生模様 -4
色気抜きで飲み食いするといえばよく寿司屋に行った。「銀座寿し」「千成」「安兵衛」(先代)「芝楽」「大和寿し」などに足を向けた。「扇寿し」は四十六年開店というから一寸後である。
私などは殆ど握らずサシミで飲み、握ってもオイハギしたりした。ヒラメのエンガワ、アワビのキモなどの美味さを知ったのも寿司屋である。寿司屋のことは又の機会に。
それから一寸キドッて、昭和通りのフランス料理「キッチン・なかむら」。三十三年四月十日の開店という。鶴岡で戦後最初の本格的洋食レストランというところか。といっても初めの頃はカウンター中心のこじんまりした感じだった。
当時私達のような駆け出しの教師にはいささか値が張るようで、あらかじめ一杯飲み屋で少し下地を入れてから繰り出したりした。
そして隣の客のビフテキとワインを横目で見ながら、ワインというものは二日酔する程飲みつづけないと本当の味は判らないのだと誰かが講釈を垂れたりした。
現在八間町で「メゾン・ド・なかむら」となって風格を示している。
駅前にも随分飲み屋が出来ていたが殆どさ迷ったことがないため不案内である。
いや一軒「なおみ」がある。しまお付かず離れず三十年に余る。「なおみ」のママは今の「祝や」の向いに三十年迄やっていた「こけし」が振り出しである。その頃なおみという源氏名を馴染み客から貰ったのである。私も知っている、いわゆる鶴岡文化人?で谷崎潤一郎の「痴人の愛」のナオミにぴったりだといってつけてくれたのだという。必ずしもぴったりだとは思わないのだが、その「なおみ」を看板にして駅前で始めたのが三十五年。今は同じ駅前でも目抜き通りに出てきて一匹狼よろしくがんばっている。
「なおみ」には「こけし」時代から、まっちゃんという友達がいる。まっちゃんは「こけし」以後、「クイーンビー」そして「ソシュ」のママになって貫禄を見せていた。一時鶴岡を離れたことがあったようだが、その後独立して飲み屋を持った。
誰か知らないが、「なおみ」とまっちゃんと、それから「葵」のママを鶴岡飲み屋の三姐御と称した。
年季の入った客あしらいは、その辺の駆け出しの比ではなかった。水商売の女の修羅場(ちょっと大袈裟か)を潜ってきたしたたかさがあった。そしてからりと明るく、又情のある三姐御であったのである。健在である。
何のことはない、ただゆきあたりばったり飲み屋の名前をひけらかし、書き散らしたような文になってしまった。
当時昭和三十年代から四十年代初めにかけての私は、若さにまかせて一年三百六十五日どころか、四百日以上も飲んだくれていた不良教師だったのだ。
慚愧の念しきりである。
(地名・店名などは、平成三年の執筆当時のものです)
