2007年02月06日(Tue) 10:06
飲み屋誕生模様 -3
「くろねこ」が又出たので、七日町に話を戻すと、一寸淫靡なムードの「万来屋」。その故か二階の小部屋で、清酒ばかりねっちり飲んだ覚えがある。後に「源氏」というバーにがらりムードを変えた。
その隣り辺りにおでんとおにぎりの「たかはし」がつつましく開店した。ママの商売熱心が実ってか、料亭「七尾」の脇の方に移り店を広くした。高校教師達がよく顔を出した。ママは塩辛類の珍味が好きで「鮎のうるか」などに目がなかった。
小料理屋ふうの飲み屋には、地味な姉に、活発な妹が手伝っていた「のぶきや」。それから「小蝶」「紀文」。「紀文」のママは前に五日町川端で「いち若」をやっていたのである。二階に小部屋があったが、隙だと面倒くさいのか下の居間で炬燵を囲んでママとホステスとワイワイ飲んだ。
一寸ユニークなバーでは、ヒゲのおやじと奥さんでやっていた「やぐ」。ダーツがあり点を取って貰って遊ぶことが出来た。おやじは枕絵を蒐めていた。大抵写真版だったが気が向くと見せてくれた。その近くにバー「古城」。
それから神楽橋寄りの方に「銀平」。割り合い教師連中が飲みに立寄った。ママは若い頃「土手下のお銀」(鶴岡赤川土手下の出身である)といわれて名を売ったらしい。本人はダチ公と一緒にちょっとばかりナンパしたのだと笑っていたが……。何年か経って望んでいたスタンドバーを銀映跡の並びに持った。同じ並びに姉の「葵」があった。お互いに悪口を言い合っていたが、店が隙だと電話を掛け合い、行ったり来たりして飲んでいた。行ったり来たりといえば「葵」と昭和通りのおでんの「ちどり」のママが店がはねると二人で一杯やっていることがあった。
「ちどり」は昭和三十年の初め頃からあったようだが、今のママが引継いだのは三十八年からだという。年中通してのおでん商売の店は「ちどり」と「たかはし」ぐらいである。「たかはし」は先代の「ちどり」に見習いにきたものだという。どちらもおでんとおにぎりブームに乗って、下戸や女性にも人気があり、一時期随分繁昌した。
「ちどり」の並びに「満月」「いっぷく」「三久(さんきゅう)」とつづいていた。
そこで酔客が「千鳥」足の好い機嫌で、「満月」を愛(め)でて(何の満月か?)から隣で一寸「いっぷく」して、最後に「三久」でしたとしめくくって帰途につく、という洒落たハシゴ酒が出来るといって本当に千鳥足で隣に回ったもんだと「ちどり」のママは笑った。
昭和通りに一時目立ったのは「アルバイトサロン」。前の「りんどう」のママの経営ではなかったかと思う。
昭和通りをずっと下った鶴岡座通りを越した右手に数軒飲み屋、食べもの屋が並び、その中に「千成(せんなり)」があった。ここは「南国」のホステス達が店がはねるとやってきて、寿司やラーメンを食べたり酒を飲んだりしていた。こっちも合流して飲み、彼女達のホンネに耳を傾けたりした。
「千成」よりもう少し下った横町に「喜多八」があった。カウンターは申訳程度で、むしろ小座敷でゆっくりという感じだった。
飲み屋というものは大抵一か所に肩を寄せあうようにして飲み屋街を形成している。
三雪(みゆき)橋向いの角に出した「バラ」はむしろそうしたパターンからはずれたところで客を呼んだ。
「バラ」のママは根っからの庄内人というタイプで鶴岡の旧家の奥さんだったようで「ンデガンスノウ」(そうですネ)「ンデガンスデバ」(そうですとも)のテイネイ語を連発した。後に二階を広げバー「再会」を開いた。
「十和田」も飲み屋街からはずれた、今の寿司屋「芝楽」の筋向いあたりだった。当時繁華街ではあっても商店街通りのド真ん中では持ち切れなかったろう。今は文映跡向いの飲み屋街にある。それから八間町の今の淀川屋の二階に確か「リスボン」だと思ったが、若い和服姿のママが客を集めていたのを覚えている。その筋向いに「朱と緑」という飲み屋があり女性客も結構入っていた。
昔の十日町で鶴岡座通りすぐ左手に、民謡では素人ばなれのママがやっている「子龍(しりゅう)」。四十五年十一月というから少し後になろう。尤もその前は「祝や」の向いで、それこそ軒下を借りたような超ミニの店から始めたのである。ママは広さ畳三畳で四十二年十月二十六日開店だと即座に答えたものである。料理は季節々々のものをしっかりつくって出した。
あとは「信長」「秀吉」「花馬車」「いないいないバー」「かに」「かっぱ」など、別に脈絡もなしに思い浮かぶが、もっとも四十年代半ばあたりからの風景だったかも知れない。
寿司屋、フランス料理屋なども、このころに続々と開店した……
(地名・店名などは、平成三年の執筆当時のものです)
