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2007年01月31日(Wed) 22:32

やきとり屋ものがたり(13)-2

 夫は、戦時中最初徴用で軍需工場に行き、その後兵隊に取られたが、その前は鶴岡でも一、二の老舗の或商店の一番番頭だった。戦後その商店は潰れた。他の職につくことなど考えられないようだった。ブラブラしているうちに、マージャン、パチンコ、酒飲みとのめり込んでいった。何とか稼いでもらおうと知り合いに頼んで、土木工事の現場の仕事に連れて行ってもらったりした。大抵一日、二日で逃げてきた。
 若い時から算盤より重いものを持ったことがなく、店先に座って指図していたものに、肉体労働は耐えられなかった。しかし徴用や兵隊ではよく勤まったものだと不思議だった。
 以前、番頭だった自分を捨て切れないでいた。いやそれだけではない。根が怠け者だったのだ。それが戦後周りが変った途端、怠け者の本性があらわれてきたのだ。そういう男なのだとつくづく思い知らされた。

 うちで働く気を起すまで待っていたら、母子が干上がってしまうとやきとり屋を始めた。うちでは五千円出してくれたその男への拘りも加わってか、さらさら働こうとしなかった。
 息子がまだ小学校の頃、明日からの米代まで持出して飲んで来た時「かあちゃん、そんなとうちゃん要らない。離婚すればええ」と叫んだ。それにはさすが参ったらしい。それから少しは稼ぎに出るようになった。誘われて横浜方面に出稼ぎに行ったりした。しかしそれも最初は行く振りをして、汽車賃を飲んでしまったりするので、駅まで送って行って汽車に乗るまで見届けたこともあった。給料は無理矢理送金させた。数か月稼いでは帰ってきてひと月程遊んで、またしぶしぶ出掛けるようになった。

 しかしとうとう定職につかないで終った。しまいには中風で倒れた。
 殆ど寝たきりだったが、食い気と色気にはびっくりした。夜中ままならぬ手足で必死に身体に触ってくる様(さま)は不気味、いやむしろ哀れでもあった。間もなく三度目の発作で亡くなった。
 そんな夫だったが、いなくなってみると、しばらくは狭いボロの借家が妙に広く、隙間風が吹きぬけるような感じがした。
 ふと、そんな時五千円を出してくれた、その男への拘りをあの世まで持って行ってのだろうかと思ったりした。
 うちで亡くなってから、正直何となく気持の張りがゆるんだような具合だった。もっとも当時末の娘も結婚して子供も出来、やっと皆片付いた故かも知れなかった。息子の嫁がまだ決まらないのが少しばかり気掛りでもあったが。

 一時期程の勢いはもうないやきとり屋商売も、だんだん馴染み中心にのんびりした気分になるようだった。
 そんなこんなしているうちに、一番上の娘が病気で亡くなった。まだ四十才前の若さである。千葉の方に世帯を持ち、看護婦で病院勤めをしていた。娘の亭主の話だと、勤め先の病院に入院したが、医師のミスがあったらしく、病状が悪化し死を早めたようだという。何とも口惜しかった。訴えてやりたい程だった。

 今年もそろそろ好きな笹巻きを送ろうと思っていたところだった。笹巻きといえば、前の年は丁度他所から糯米を貰ったので家で作って送った。ところが孫娘から「今年の笹巻きは随分しょっぱかった」と電話がきた。アッと思った。そういえば家に灰(あく)がないので屋台の灰を使って煮たのだ。しょっぱいわけだ。娘と孫に謝ったら大笑いされた。その笑い声を今でも思い出す。

 ところで亡くなったその長女はあたしの実の娘ではない。先妻の子だ。継母の私によく懐いてくれた。下に四人の妹弟が出来たが長女は実によく面倒を見た。夜おそいやきとり屋商売を続けられたのも長女のお陰といってよい。最初の頃は一番下の弟がむずかってさすがに手に負えなくなると、おぶって、四女の手を引いて店まで二十分余りの夜道を歩いてきた。やきとりを一、二本食べて帰るのだった。

 それはそうと、長女が先妻の子だということはうちのひとはあたしと再婚。後妻を承知で結婚した。私は初婚だが。先妻とは生き別れ。何で離婚したのか、舅と折り合いが悪かったとか、又他の男に走ったとか、聞えてはきたが誰もはっきり話してくれなかった。
 何でわざわざ後妻に行ったといわれても、たまたまそうなったというしか……

つづく
そんな「あたし」の娘時代は……