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2007年01月26日(Fri) 20:54

やきとり屋ものがたり(10)

 現在の昭和通り、料亭「新萌」の傍に「赤のれんA」の屋台があった。後で聞いたのだが昭和三十一年から三十四年までだという。
 暖簾が実に思い切って赤く目立った。客はかあちゃんの腰巻だろうとひやかしながら飲んだ。そういう派手な暖簾を看板にするだけあって陽気で客あしらいに長けていた。昭和初めの生まれというから昭和の年代と殆ど一緒の歳月である。やきとり屋では珍しく源氏名を名乗っていた。というのも以前に小料理屋で働いており、その時に客がつけてくれたのだという。そんなことでやきとり屋のかあちゃんにしては一寸異色だった故もあってか最初は同業者から異端視されたようである。
 いつもしゃんと和服姿でやきとりを焼いている彼女にもんぺを穿けと嫌味を言ったりした。一味違う垢抜けた彼女が目障りだったようである。

「A」は母親と一人娘を抱えて満州から引揚げてきた未亡人である。戦争のために運命を左右された一人である。いろいろな経験を潜ってきたらしい。
 しかしそんな素振りは毫も見せず、とにかく陽気に振舞っていた。そんなところから客がよくついたようである。

 客といえば、小学校三、四年ぐらいの男の子がやきとりを食べにきた。必ず店を開けるのを待構えていたように十円玉一枚握ってその少年はやってきた。「A」のかあちゃんはすぐさまレバを一本焼いてタレをたっぷりかけてちゃんと皿に乗せて出した。
 年の割には小柄で血色もあまりよくない。少年の母親はレバが血をふやすのによいと誰かにいわれたらしく、「A」に頼みにきたのである。少年は雨が降っても殆ど毎日欠かさずやってきた。無口で最初は一本のレバを食べ終えるなり駆け出して帰って行ったが、ひと月も経つと「A」と話して行くようになった。時には七輪に火を起したり、やきとりを串に刺すのまで手伝った。そんな時「A」は駄賃にともう一本焼いた。「かあちゃんの若い燕か」馴染みにひやかされたりした。

 そのようにして少年のやきとり屋通いは半年ほど続いたが、或日、少年は風邪を引き一週間振りで十円玉を手にやってきた。しかしその時すでに「赤のれんA」は姿を消していた。
「A」は、その間に前から話のあった飲み屋の店舗が急に決まり、あたふたと屋台を畳み、駅前の方に移ったのである。「A」はやきとり屋台のかあちゃんでは終るまい、きっとちゃんとした店を一軒構えるんだと心に期していたようである。

 一方少年は信じられなかった。「A」が居なくなる筈はないと、その屋台跡に何日間か佇んだ。母親に泣いて訴えた。見るに見かねた母親があちこち聞きまわり、少年と一緒に探した。しかし判らず仕舞いだった。

 それが二十八年目にしてその少年と「A」は再会したのである。

 宴会の流れらしい数人が居酒屋風「A」の扉を乱暴に開けながら入ってきた。その中の一人がママの顔を見るや「赤のれんAのかあちゃん」と呻いたのである。

 かつての少年に、黙って消えた「A」は詫びた。尤も連絡しようにも「A」は少年の住所を知らなかった。彼には少年の頃のようなひ弱さはなく、明るかった。公務員で係長だという。

 数日して再会した少年の母親が菓子折を持って訪ねてきた。「A」はそれでは逆だと菓子折を押戻すと、母親は何時か会ったら是非御礼を言いたかったのだとその訳を話した。

 あの頃の少年は成程病弱でもあったが、今でいう登校拒否でもあった。むしろその方で母親は苦労した。ところが「赤のれんA」にレバを食べに行くようになってから少年は徐々に明るくなった。学校にも行くようになった。「赤のれんA」に走る少年の表情は生き生きしていた。段々と「A」のかあちゃんになついて行くのが母親にもよく判った。思い掛けないことだった。お陰で登校拒否が直り、母親としてのあり方にも反省させられたと頭を下げた。そういえば「A」には思い当ることもあったが登校拒否のことまでは知らなかった。知らないうちに少年に教育の役割を果していたことになる。
 少年は「赤のれんA」が突然消えて、しばらくは落込んだがしかし立直ったという。
 

 ところで私にとって「赤のれんA」といえば親子して飲みに行っていたということが、何か奇妙な気分として残っている部分がある。

 親子してといっても一緒に飲みに行ったということではない。店で顔を合わせたこともない。
 父が飲みにきていたことは「A」が駅前に移ってから聞いて初めて知ったのである。「倅の奴、ヨメを貰う気があるのか、何時も飲んだくれて」と嘆いて見せ「オトコかどうか、Aよ、倅を試してみてくれや」と言われたものだ、勿体ないことをしたと「A」はカラカラと笑った。
 父の方は息子が飲みにきているのをちゃんと知っていたが、息子の方は父が立寄っているとは少しも知らなかったのである。
 もし知っていたとしたら私はもう飲みに行かなかったろうと思う。恐らく父の方でも私とかち合わないようにしていたものと思う。もっとも父は二、三か月に一辺程度だったらしい。それにしても私の方がよくかち合わなかったものだと思う。
 父は「赤のれんA」のことは一言も口にしなかった。勿論私もである。

 ともあれ、父と私はつまりそんな雰囲気にあったといえる。
 その頃の私は両親とあまりしっくりいっていなかった。とくに父とは口を利かない日が多かったのである。
 その辺のところを「A」は何となく察知していたようなフシがある。